コラム

焼肉の進化と現代カルチャー

第1章:火を得た人類と“焼く”という革命

― 肉を焼くことの始まりは、文化の始まりでもあった ―

私たちが日常的に口にする「焼肉」。その最も原始的なルーツは、人類が火を手にした時代にさかのぼります。火を操り、食物を加熱するという行為は、他の動物にはない人間固有の文化の出発点とも言えます。

人類が火を使い始めた正確な時期ははっきりしていませんが、少なくとも数十万年前の化石人類には火の利用の痕跡が確認されています。ホモ・エレクトスもその初期の担い手と考えられています。当時の人類は、落雷や自然火災で得た火を「保存」し、それを調理や暖房、外敵から身を守る道具として活用していたと考えられています。

焼くという行為は、単に肉を柔らかくして食べやすくするだけではなく、病原菌を殺菌し、安全に摂取できるようにするという意味もありました。さらに、熱によって肉のアミノ酸がメイラード反応を起こし、香ばしさと旨味を引き出すようになります。これは、単なる栄養摂取から「美味しさを楽しむ食文化」への大きな進化でした。

狩猟で仕留めた動物を焚き火のそばで炙り、家族や仲間と分け合って食べる。そこには、今日の「焼肉を囲んで語らう」というスタイルの原型がすでに存在していたのかもしれません。

焼いた肉の匂いは遠くまで届きます。匂いに引き寄せられて人が集まり、火を囲み、言葉を交わし、役割を分担する。焼くという行為は、人間社会の形成とも密接に関わっていたと考える研究者もいます。焼肉とは、単なる調理法ではなく、人類の進化とともに育まれた“共食の原点”でもあったのです。

やがて火の起こし方が発見されると、焼くという行為はますます日常の中に定着していきます。調理場の発展とともに、木の枝や石を使った焼き台、簡易なかまどなども生まれ、「焼く」という文化はより多様に、技術的に洗練されていくことになります。

現代における「焼肉」という形とは程遠いかもしれませんが、火を通して肉を焼くというこの最も原始的な行為こそが、世界中に存在する焼肉文化の原点なのです。


第2章:古代世界の焼肉文化 ― 神と人と、火の饗宴

人類が火を扱えるようになって以降、肉を焼くという行為は単なる調理にとどまらず、「神聖な儀式」「祭りの中心」としての役割を担うようになっていきます。
古代の人々にとって、肉を焼くことは「命への感謝」と「神への奉納」、そして「共同体の絆」を意味していました。


古代エジプトと“肉供物”

古代エジプトでは、牛や羊などの肉を神々や死者に捧げる儀式が盛んに行われていました。
神殿や墓の壁画には、肉を切り分けて供物台に並べる様子が描かれ、祭祀における食肉が重要な役割を果たしていたことが判明しています 。

調理法については明確な描写が少ないものの、焼く・煮る・干すなど複数の処理が行われていた可能性があり、その中に焼きが含まれていたと考える研究者もいます
また、儀式の際に香りや煙が神や死者との媒介になるとする仮説もあり、焼く行為がただの調理以上の意味を持っていた可能性を示唆します


古代ギリシャ・ローマと「肉と火」の宴

古代ギリシャ
神への動物供犠の後、残った肉を市民が分け合う「共同の宴」が一般的でした。祭祀儀礼を通じて肉を共有することが共同体の絆を深める社会的行為であったとされています
古代ローマ
公共の場や貴族邸宅で行われる宗教儀式や宴会において、犠牲肉が神に捧げられた後、一般市民に配られ、共に食されていた記録があります。これにより、火と肉、会話を共にする場が自然発生的に形成されていたと考えられます。


東アジア:中華の「炙」文化

中国では古くから「炙(シャオ)」という焼肉文化が存在していました。これは戦場や野営時に簡易に肉を焼いて食べる実用的なスタイルで、牛・羊・豚の肉が串焼きされ、薬味や調味料を添えて供されていました。


神と交わるための「煙」と「匂い」

共通して言えるのは、「焼く=煙を立ち上らせる」ことが、神や祖霊と交信する手段と考えられていたことです。
肉を焼いたときに立ちのぼる香ばしい煙や匂いは、人間だけでなく神々にも届くものと信じられ、だからこそ「焼肉」は神聖な儀式にも不可欠な要素となっていました。


現代においても、七輪や炭火で焼いた肉の香ばしい香りに「心が落ち着く」「懐かしさを感じる」と語る人が多いのは、この古代的な記憶が私たちの中に遺伝子レベルで刻まれているからかもしれません。

焼肉 網 煙



第3章:日本と肉食の禁忌 ― 仏教とともに消された“焼く文化”

焼肉の原点が「肉を焼いて食べる」というシンプルな行為であったとしても、それが常にすべての地域で肯定されてきたわけではありません。
その象徴的な例が、日本です。


縄文人は肉を焼いていた

日本列島では、縄文時代の貝塚や遺跡からシカ・イノシシ・クマなどの骨が多数見つかっており、狩猟民であった縄文人がこれらを焚き火で焼いて食べていたことはほぼ確実視されています。
当時の土器には焼いた肉の脂が染み込んだ痕跡もあり、焼肉に近い調理法が存在していたと考えられています。


飛鳥時代:肉食禁止令のはじまり

ところが、仏教伝来以降、日本では肉を食べる行為が宗教的にタブー視されるようになります。
その最たる例が、西暦675年に天武天皇が出した「肉食禁止令」です。

この法令では、牛・馬・犬・鶏・猿の肉を食べることを禁止し、違反した者には罰則を科す旨が記されています。仏教の“不殺生”という教えが背景にあり、動物の命を奪ってまで食事に供することは不浄であるとされたのです。


牛と馬はの食肉禁止

牛や馬が肉食禁止令の対象になったのは、農耕を担う重要な家畜として殺生が“農事を穢す”とされ、農耕中心の国家意識に基づいたものでした。


鳥獣を「薬食い」として食す知恵

しかし、現実には人々は完全に肉食をやめたわけではありません。
特に山間部の農村では、イノシシやシカを「薬」と称して食べる「薬食い」の文化が密かに継承されていきます。

これが後に、「もみじ鍋(シカ肉)」「ぼたん鍋(イノシシ肉)」など、植物に見立てた隠語で呼ばれる野生動物料理として受け継がれていくのです。


江戸時代:公式にはダメ、でも実際は…

江戸時代には、幕府の公式な方針としても肉食は奨励されませんでしたが、実際には「養生食」として獣肉を提供する店も存在していました。
たとえば「ももんじ屋」と呼ばれる店では、鹿や猪、狸などを扱っており、常連客の中には武士や町人もいたと記録されています。

ただし、これらはあくまで“裏文化”であり、表だって「焼いて食べる」スタイルが普及することはありませんでした。
火を囲んで肉を焼く――そんな単純な行為が、宗教・道徳・政治によって何世紀にもわたって“抑圧”されていたのです。


日本における「焼肉の空白時代」。
それは宗教と文化の交差点で起きた、極めて日本的な食の物語でもありました。



第4章:明治維新と“牛肉解禁” ― 牛鍋の登場と文明開化の味

日本における肉食の禁忌は、千年以上にもわたり社会の中に根付いていました。
しかし、その長い封印を解いたのが、明治維新という時代の転換点です。
ここから、日本の食文化に大きな地殻変動が起こります。


明治5年、天皇が牛肉を食す

1872年(明治5年)、明治天皇が公式に「牛肉を食した」というニュースは、当時の日本社会に衝撃を与えました。
それは単に「皇族が肉を食べた」という話にとどまらず、千年以上続いた“禁忌”が国家のトップによって破られた瞬間でもあったのです。

この出来事は、文明開化の象徴として受け止められ、政府は「肉食を奨励する政策」を次々と打ち出していきます。
その背景には、欧米列強との国力差を埋めるために“体格の西洋化”を目指すという目的もありました。


「牛鍋屋」ブームの到来

この牛肉解禁を受けて登場したのが、「牛鍋(ぎゅうなべ)」という新しい料理でした。
醤油と砂糖で甘辛く煮込むこの牛肉料理は、のちの「すき焼き」の原型となるもので、当時の人々にとっては“未知の美味”だったと言われています。

東京・横浜・大阪などでは牛鍋屋が続々と開店し、一大ブームに。
これまで「薬食い」としてこっそり食べていた肉が、ついに“表の食文化”として陽の目を浴びることとなったのです。


肉は“文明の味”となった

明治時代の牛肉は、当時の人々にとって「体によいもの」「力がつくもの」という意識が強く、肉を食べること自体が文明化・近代化の象徴でした。
都市部の若者や軍人、知識層はこぞって牛鍋やステーキを食し、「肉を食べる=進歩的」というイメージが生まれていったのです。


こうして「肉を焼く文化」は、長い禁忌を超えて再び日本に戻ってきました。
次なる舞台は、大正・昭和を経て戦後へ――。
焼肉という料理が、本格的に“民衆の食卓”へと根づいていく転換点が訪れます。


第5章:戦後の闇市とホルモン焼き ― 焼肉は“捨てられた肉”から始まった

「焼肉」としての現在のスタイルが日本に定着したのは、戦後の混乱期がきっかけでした。
焼肉は、実は“不要とされた肉”――つまり内臓、ホルモン――から始まったのです。


焼肉は高級料理ではなかった

1945年、日本が第二次世界大戦に敗れた後、都市部では物資も食料も不足し、闇市が乱立する混沌とした時代に突入します。
正規の食料配給は機能しておらず、人々は少しでも口にできるものを求めて路上の屋台やバラックに集まりました。

このとき、食肉処理場や精肉店で「捨てられていた」牛や豚の内臓、つまりホルモン(=放るもん)を仕入れて焼き始めた人々がいました。
彼らの多くは在日朝鮮人であり、朝鮮半島に伝わる「肉を焼いて食べる」文化と技術を持っていたのです。


ホルモン焼きの始まり

彼らは、捨てられていたモツやレバー、ハツ、シマチョウなどを鉄板や網で焼き、安価で提供しました。
タレに漬け込んだり、味噌やニンニクで味を調えたりといった工夫がされ、これが「ホルモン焼き」の始まりとされています。

当時のホルモン焼きは、「貧しい者の食べ物」としてではなく、むしろ“スタミナがつく”“クセになるうまさ”として多くの人々に受け入れられていきました。


闇市から店舗へ、そして“文化”へ

闇市の屋台はやがて仮設店舗となり、そして恒久的な“焼肉屋”へと変わっていきます。
中でも有名なのが、1946年創業の大阪「食道園」や、東京「明月館」などの老舗店。
彼らはホルモンを提供するだけでなく、カルビやロースなどの肉も扱うようになり、現在の焼肉店のスタイルの原型を作っていきました。

また、在日コミュニティが運営する焼肉店は、単なる飲食の場を越え、言葉や文化、アイデンティティが交差する“居場所”としての機能も果たしていました。
日本の焼肉文化は、こうした人々の知恵と努力、そして異文化融合によって育まれていったのです。


「焼肉=内臓料理」の原風景

現在ではカルビやタンが主役となることも多い焼肉ですが、その出発点が「内臓=ホルモン」であったという事実は、焼肉という料理の“生活に根差した強さ”を象徴しています。

高度経済成長よりも前、焼肉はまだ“庶民の屋台料理”でした。
煙を上げる鉄板の上に、モツやレバーがじゅうじゅうと焼け、焼きたてを口に入れると、思わずうなるうまさ。
それが、戦後日本を支えた“焼く文化”の再来だったのです。



第6章:呼び名の変遷 ―「朝鮮料理」から「焼肉」へ

現代の私たちにとって「焼肉」という言葉は、もはや当たり前の存在です。
しかし、この言葉がどのように定着してきたのかをひもとくと、そこには民族・文化・社会情勢が深く絡んだ“言葉の物語”が横たわっています。


戦後の焼肉店は「朝鮮料理店」だった

戦後まもなく登場した焼肉店の多くは、当初「朝鮮料理店」として看板を掲げていました。
店のメニューには「カルビ焼き」「ホルモン焼き」「チヂミ」「キムチ」などが並び、いまの韓国料理店に近いラインナップだったとも言えます。

これらの店の多くは在日朝鮮人によって営まれており、彼らが朝鮮半島の焼肉文化と、日本の食材・調理法を融合させることで独自の焼肉スタイルが形成されていったのです。


1960年代:政治の影が「呼び方」に落ちる

ところが、1950年代から60年代にかけて、国際情勢が「朝鮮」という言葉に微妙な影を落とし始めます。
特に、1965年の日韓基本条約の締結前後から、「朝鮮料理」という呼称に対して政治的・差別的なニュアンスを抱く人が増えていきました。

加えて、南北分断の影響や、在日コリアン社会内でのルーツの違い(南出身か北出身か)が複雑に絡み、店名やメニューから「朝鮮」という表現が避けられるようになります。


「韓国料理」と「焼肉」の分岐

それに代わって登場したのが「韓国料理店」という名称です。
ただし、当時の日本では「韓国料理」という言葉はまだ一般的ではなく、料理そのものの名前を前面に出した「焼肉店」という名称が好まれるようになります。

「焼肉」という言葉は、シンプルでわかりやすく、政治的中立で、何よりも“料理の本質”を的確に表現していました。
その語感の良さ、伝わりやすさもあり、1970年代には全国的に「焼肉店」という呼称が一般化していきます。


「焼肉」は日本が作った和製語だった

「焼肉という呼称は、日本独自の料理・文化に対してつけられた和製語であり、朝鮮半島では『プルコギ』『カルビ』などが使われています。

1960年代後半の呼称混乱期に、政治的中立性と料理の実態を表す名前として広まり、1970年代以降、全国に定着していきました」

この呼び名の定着が、焼肉という料理のイメージを「異国の料理」から「日本の外食文化の一つ」へと変貌させていく大きなきっかけになりました。


焼肉=日本式というアイデンティティ

現在、世界的にも「YAKINIKU」という言葉は“日本式の焼き肉”を意味するブランドとなっています。
そこには、呼び名に込められた政治的背景、在日コリアンのアイデンティティ、日本の消費文化との融合という、複雑で多層的な歴史が織り込まれているのです。


ビビンバ



第7章:高度経済成長と焼肉の大衆化 ― ビールと白飯とカルビの時代

「焼肉」が料理ジャンルとして定着していくのは、昭和中期の高度経済成長期とほぼ重なります。
この時代、日本人の生活は大きく変わり、焼肉は「ちょっとした贅沢」から「日常のごちそう」へと進化していきました。


経済の成長が胃袋を変えた

1950年代後半、日本は本格的な復興期に入り、高度経済成長と呼ばれる急激な経済発展を遂げていきます。
白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫が「三種の神器」として家庭に広まり、所得水準が上がるにつれて、外食産業にも光が差し始めました。

都市部にはサラリーマンがあふれ、外食需要が高まりました。中華料理、洋食、喫茶店、そして“焼肉店”もその波に乗って店舗数を拡大していきます。


焼肉定食というスタイルの確立

この頃から「カルビ+白飯+スープ」という焼肉定食のスタイルが確立され始めます。
昼は定食、夜はビールを片手に焼肉という二面性があり、焼肉店は「会社帰りのオアシス」として人気を集めていきました。

特に「カルビ」「ロース」「ハラミ」などの部位名がメニューに記載されるようになったのもこの時代。
ホルモン中心だった焼肉が、精肉系の部位を扱うようになり、食の主役としての地位を確立していきます。


昭和40年代:家族で行く焼肉屋という文化

焼肉は次第に“サラリーマンの食事”から、“家族で行くちょっと贅沢な外食”へと変貌していきます。
週末になると家族で焼肉店へ行き、父はビール、子どもはジュース、テーブル中央のロースターで皆が肉を焼くという、現代でも見られる風景の原型がこの時代に生まれました。

この「自分で焼く」スタイルは、子どもにとっても特別感のある体験であり、焼肉が「家族の思い出」と結びつくようになっていきます。


ホットプレートと自宅焼肉の普及

また、家庭用ホットプレートの登場も焼肉文化を大きく後押ししました。
電気式の卓上コンロで、リビングのテーブルを囲みながら肉を焼く「家焼肉」は、特に都市部の集合住宅や核家族に支持され、一気に普及。

「今日は焼肉だよ」という母親の一言は、子どもたちにとって“ごちそうの合図”でした。


“煙”という課題

ただし、当時の焼肉店には一つ大きな課題がありました――それは“煙”です。
七輪やガス台から立ちのぼる煙は、服や髪に匂いがつき、女性客や家族連れにとって敬遠される原因にもなっていました。

この“煙問題”を解決した技術が、次章で登場する「無煙ロースター」だったのです。

焼肉店は、ただの食事の場ではなく、“団らん”の象徴として人々の記憶に残る場所になっていきました。


ビールで乾杯する様子



第8章:無煙ロースターの登場と焼肉の革命 ― 店舗空間が“煙”から解放された日

昭和から平成へと時代が移る中で、焼肉文化における最大級の技術革新が訪れます。
それが、店内の空気を大きく変えた「無煙ロースター」の登場です。
この技術が、焼肉を“もっと気軽に、もっと快適に”楽しめる料理へと押し上げました。


焼肉の最大の弱点=煙問題

焼肉は、肉を直火で焼く以上どうしても煙が発生します。脂が炭やガスの炎に落ちるたびに煙が立ち上り、服や髪にニオイが染みついてしまう――これは、焼肉好きの誰もが一度は経験する“焼肉あるある”です。

この煙問題は、昭和期の焼肉店にとって避けがたい課題であり、特に女性客やスーツを着たビジネスマン、家族連れの来店を妨げる要因となっていました。


1980年代:無煙ロースターの登場

そんな中、1980年代初頭に登場したのが「無煙ロースター」です。
これは、テーブルに内蔵された排気ダクトによって煙を吸い込み、客席上に煙が広がるのを防ぐという画期的な仕組みでした。

この設備は当初は高級店や新興チェーンを中心に導入されていきました。


店舗空間の刷新と“焼肉=清潔”のイメージへ

無煙ロースターの普及は、焼肉店の空間づくりに革命をもたらしました。
もくもくと煙が立ち込めていた焼肉店は、次第に明るく清潔な内装へと変化していきます。
白いシャツでも安心、香水も気にせずOK、女性だけでも入りやすい――そうした焼肉店が続々と誕生しました。

そしてこの頃から、焼肉は「オシャレな外食」の仲間入りを果たしていきます。


チェーン店の登場と焼肉の標準化

無煙ロースターの導入と並行して、焼肉業界ではチェーン展開を視野に入れた動きも始まります。
無煙設備・統一レシピ・均一価格といった要素によって、「焼肉の標準化」が進められていきました。

それまでは個人経営の焼肉店が主流でしたが、ここから「焼肉=全国どこでも同じ品質で楽しめる」という意識が根づいていきます。


焼肉は“誰でも楽しめる料理”になった

無煙化によって、焼肉店は「誰でも、気軽に、ストレスなく楽しめる」空間へと進化しました。
友人同士、カップル、家族、そしておひとりさままで、誰もが煙を気にせず肉を焼ける時代の到来です。


この“空気の変化”こそが、焼肉の大衆化を一気に加速させました。
もはや焼肉は、特別な日だけの料理ではなく、“日常の中の小さな楽しみ”として、生活の中にしっかりと根づいたのです。



第9章:バブルと和牛ブーム、そしてBSE ― 焼肉は“贅沢の象徴”となった

1990年前後、日本は空前のバブル景気に沸いていました。
株価も地価も上昇を続け、消費者の財布の紐は緩み、人々は“高級”を求めて外食に繰り出しました。
焼肉もその流れに乗り、「贅沢」「ご褒美」「接待」にふさわしい料理として、急速に変貌を遂げていきます。


和牛ブームの到来

この時代、焼肉店のメニューに並ぶ牛肉は「国産牛」から「和牛」へとシフトしていきました。
「霜降り」という言葉が一般化し、A5ランク、松阪牛、神戸牛、米沢牛などのブランド和牛が注目を集めます。

とろけるような脂の甘さ、舌に吸いつくような食感、華やかなプレゼンテーション――
それまで“スタミナ料理”として親しまれてきた焼肉が、“贅を尽くした嗜好品”へと一気にランクアップしたのです。


銀座・六本木・北新地の高級焼肉店

特にバブルの恩恵を受けたのが、都心の一等地にある高級焼肉店でした。
銀座では1人1万円を超えるコースが常識となり、六本木では“芸能人御用達”の個室焼肉店が話題を呼び、北新地ではワインと和牛を合わせる新しいスタイルが登場しました。

焼肉は、スーツ姿で行く“洒落たディナー”に変貌しつつありました。


ただし、焼肉業界は輸入牛肉に支えられていた

一方で、こうした表のラグジュアリー路線の陰で、日本の焼肉業界はアメリカやオーストラリアからの「輸入牛肉」に大きく依存していました。
1991年の牛肉輸入自由化により、安価な輸入牛が市場にあふれ、チェーン店の焼肉ビジネスが拡大。
「焼肉=高級」というイメージと、「焼肉=ファミレス的な手軽さ」という二極化が始まったのもこの頃です。


そしてBSEショックへ

2001年、日本国内で初めて「BSE(牛海綿状脳症=いわゆる狂牛病)」が発生。
これをきっかけに、牛肉全体に対する消費者の不安が一気に高まりました。
焼肉店の売上は激減し、閉店を余儀なくされる店も少なくありませんでした。


焼肉業界の“安全”への取り組み

これを契機に、焼肉業界では「トレーサビリティ(生産履歴の追跡)」が制度化されます。
肉が「いつ」「どこで」「どの牛から」取れたかを明示するようになり、消費者に対する安心と信頼の確保が急務となりました。

また、ユッケなどの生食提供にも厳しい規制が設けられるようになり、店側は“美味しさ”と“安全性”を両立させる工夫を求められるようになります。


高級と庶民、二つの路線が同時に進化した時代

こうして焼肉は、高級和牛とワインを味わう「上質路線」と、ファミリーや学生でも気軽に通える「庶民派チェーン」の両輪で進化していくことになります。

BSEショックという試練を経て、焼肉は「安心・安全・美味しい」を改めて考える転換期を迎えたのです。



第10章:多様化する現代焼肉 ― 赤身、ホルモン、ひとり焼肉の時代

21世紀に入って以降、焼肉はかつてないほどの“細分化”と“多様化”を遂げています。
健康志向の高まり、ITの進化、価値観の多様化――それぞれが焼肉のスタイルを変え、いまや「焼肉」という言葉はひとつの料理というより、“文化そのもの”を指す言葉となりつつあります。


赤身肉ブームの到来

2010年前後から、脂の多い霜降り肉よりも「赤身肉」の人気が急上昇しました。
きっかけは、健康志向・ダイエット志向の高まりと、「高タンパク・低脂質」という栄養バランスの見直しにあります。

これに応える形で、赤身肉専門の焼肉店が登場。
ランプ、イチボ、カメノコ、シンシンなどの部位名が注目され、これまで“脇役”だった部位が“主役”へと躍り出ました。


ホルモン焼きの再評価

同時に、「ホルモンブーム」も再燃します。
特に若い世代の間で、ホルモン専門店や立ち食いホルモン酒場も人気を集めるようになりました。

昭和の闇市で生まれたホルモン焼きが、平成・令和において「安くて旨い粋な料理」として新たな光を浴びているのです。


ひとり焼肉という新しいスタイル

かつて焼肉は“複数人で囲む料理”でした。
しかし近年では、「ひとり焼肉専門店」が都市部を中心に登場し、大きな話題を呼んでいます。

カウンターに一人用のロースター、タッチパネル注文、静かなジャズのBGM――
まるで寿司屋や蕎麦屋のように、落ち着いて自分のペースで焼肉を楽しむスタイルが支持されています。

「焼肉=社交」から、「焼肉=自己満足」の時代へ。
価値観の変化が、焼肉体験をパーソナルなものに進化させています。


IT化とスマートオーダー

また、注文システムにも大きな変化がありました。
従来のホールスタッフによる口頭注文に代わり、タッチパネル・スマホ注文・自動配膳ロボットなどが導入され、コロナ禍をきっかけに非接触型オーダーが急速に浸透しました。

食べ放題チェーンでは、焼いた肉をAIが監視して“焦げすぎ”を教えてくれるサービスや、自分のスマホから焼き加減を調整できるロースターなども登場しています。


ニッチな専門性の追求

・熟成肉専門店

・ラム・マトンなど羊肉特化型

・ハラール対応焼肉

・ワイン、クラフトビールと焼肉のペアリング

・“塩しか使わない”ストイック焼肉

・“ご飯なし”糖質制限焼肉コース

――このように、焼肉は「誰にでも同じ体験」ではなく、「それぞれの好みに合わせて選ぶ時代」に突入しているのです。


焼肉はかつて、労働者のスタミナ食でした。
今では、健康、美容、趣味、癒し、快楽、儀式――人それぞれの目的で楽しまれる“多機能な料理”へと進化しています。



まとめ:火と肉と人をつなぐ「焼肉」という文化

ここまで、焼肉の歩んできた歴史を辿ってきました。
焼肉の歴史をたどると、今私たちが当たり前に楽しんでいるスタイルの中にも、
多くの知恵と工夫、そして時代背景が込められていることに気づきます。
池袋駅から徒歩5分、焼肉たんたんでは、そんな焼肉の“今”を気取らず味わえる空間をご用意しています。
カウンター越しに、肉の香ばしさとおすすめの一品料理をお楽しみください。

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